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第2話 十八年間で初めて「嫌です」と言いました

last update publish date: 2026-09-11 20:59:52

第2話 十八年間で初めて「嫌です」と言いました

「リゼット、少し頭を冷やしなさい」

王宮の治療室を出て最初に父から言われたのは、そんな言葉だった。

まるで、さっき自分が婚約指輪を外したことも、妹の身代わりになるのを拒んだことも、一時の激情に任せた行動でしかないと言われているようだった。

実際、父はそう思っているのだろう。

治療室に残ったミレイユの処置は宮廷魔術師たちが続けることになり、リゼットたちは隣の応接室へ移された。重い扉が閉じると、あれほど張り詰めていた空気が少しだけ緩むはずだったが、リゼットにはむしろ逃げ場を塞がれたように感じられた。

父は立ったまま窓辺に寄り、母は長椅子へ座って何度も目元を押さえている。

アルベルトは向かい側の椅子に座っていたが、黙ったままだった。

机の上には、先ほどリゼットが返した婚約指輪が置かれている。

誰も持ち去らなかった。

小さな金色の輪が、ひどく場違いに見えた。

「頭なら冷えています、お父様」

リゼットは答えた。

父が深く息を吐く。

「それならなおさら問題だ。自分が何をしたか理解しているということだからな」

「理解しています」

「本当にか?」

父はようやくこちらを見た。

その表情には怒りもあったが、それ以上に困惑があった。

娘が突然、知らない人間になったとでも言いたげだった。

「王太子殿下との婚約だぞ。お前が生まれた頃から我が家がどれほど王家との縁を望んできたか、知らないはずはない。婚約が正式に決まった時、お前自身も喜んでいただろう」

「はい」

「なら、どうして一度の行き違いで全てを投げ捨てる」

その言い方に、リゼットの胸が少しだけ痛んだ。

一度の行き違い。

父にとっては、今日起きたことだけを指しているのだろう。

だがリゼットにとっては違う。

今日いきなり嫌になったのではない。

ずっと嫌だった。

ずっと怖かった。

そのたびに飲み込んできただけだ。

「一度ではありません」

リゼットは静かに言った。

「何がだ」

「今日だけではありません。十二歳の時も、十四歳の時も、十六歳の時も、私は怖かったです。祈紡ぎを使うたび、次に目を覚ました時、自分が何を失っているか分からないのが怖かった。けれど、その度に『大丈夫だ』と言われました。私も、そういうものなのだと思おうとしてきました」

父の眉間に皺が寄った。

「だからと言って、家族を見捨ててよい理由にはならないだろう」

見捨てる。

その言葉は鋭かった。

リゼットは一瞬、言葉を失った。

母が慌てて父を見る。

「あなた、そんな言い方は……」

「だが事実だ。ミレイユの命がかかっている。リゼットにしか助けられない可能性が高い。それを分かった上で拒むなら、結果として見捨てることになる」

リゼットの指先が冷たくなる。

たぶん父は、彼女を傷つけようとして言っているわけではない。

むしろ、筋の通った話をしているつもりなのだろう。

だから厄介だった。

悪意だけなら、もっと簡単に嫌いになれる。

「お父様は、私に何を求めているのですか?」

「ミレイユを救うことだ」

「そのために、私が誰を忘れてもですか?」

父の口が止まった。

リゼットは続けた。

「もし、お母様のことを忘れても。お父様のことを忘れても。殿下を忘れても。それでも構わないと、本当に思っていらっしゃいますか?」

「そういう話ではない」

「同じ話です」

「違う」

珍しく父の声が強くなった。

「命と記憶は違う。ミレイユが死ねば、もう何も取り戻せない。しかし、お前が記憶を失ったとしても、生きてさえいれば新しい関係を築ける。だから私は、より取り返しのつかない方を優先すべきだと言っている」

理屈は分かる。

嫌になるほど分かってしまう。

だから、今までずっと従ってきた。

「では、お父様」

リゼットは父から目を逸らさなかった。

「私が全部忘れても、同じことを言えますか?」

父の顔がわずかに固まる。

「全部?」

「自分の名前も、この家のことも、家族のことも。何もかもです」

「そこまでになるとは限らないだろう」

「そうですね。ですが、ならないとも言えません」

グレイグの説明では、それほど強い呪いだった。

誰も確かなことなど言えない。

「私は、ミレイユに死んでほしいわけではありません。でも、私だって、自分が誰なのか分からなくなるのは怖いのです」

母が小さく泣き声を漏らした。

「リゼット……あなた、そんなに辛かったの?」

その問いに、リゼットは笑いそうになった。

笑える話ではないのに。

どうして今まで分からなかったのですか、と言いたかった。

けれど、口に出せなかった。

母が知らなかったのではない。

リゼットが言わなかったのだ。

「辛いと言えば、お母様たちを困らせると思っていました」

「そんな……」

「それに、私が我慢すれば誰かが助かるのでしょう? だから言わない方がいいのだと思っていました」

「それなら、今日だって……」

母が途中で言葉を止めた。

自分でも、何を言おうとしたのか気づいたのだろう。

今日だって我慢すればいい。

そう言いかけた。

リゼットにも分かった。

母にも分かった。

だからこそ、部屋の空気が重くなった。

アルベルトが長い沈黙の後、口を開いた。

「リゼット」

彼の声は、先ほどより静かだった。

「さっきのことは、私も言い方が悪かったと思っている」

リゼットは彼を見た。

「記憶ならまた作ればいい、という言葉ですね」

「ああ」

「言い方だけの問題なのですか?」

アルベルトは少し黙った。

「……そう言われると、違うな」

その答えに、リゼットはわずかに驚いた。

もっとすぐに否定すると思っていた。

アルベルトは眉間へ手をやった。

「私は、君なら受け入れると思い込んでいた。これまでそうだったからだ。君は誰かが困っていれば助けていたし、それを嫌がっているようにも見えなかった」

「嫌がらないようにしていました」

「なぜ?」

その問いに、今度こそリゼットは少し笑った。

「殿下まで、そうお尋ねになるのですね」

「どういう意味だ」

「嫌だと言える雰囲気ではありませんでした」

アルベルトの顔が硬くなる。

「私は君に強制したつもりはない」

「はい。殿下は命令されたことはありません」

「なら――」

「でも、断ったこともありませんでしたから」

リゼットは机の上の婚約指輪を見た。

「あの頃の私は、殿下に嫌われるのが怖かったのです。役に立つ婚約者でいなければならないと思っていました。だから、頼まれたら断らなかった。殿下も、それを当然だと思うようになった。それだけのことです」

アルベルトの顔に、初めて分かりやすい動揺が浮かんだ。

「私が君を、役に立つかどうかで見ていたとでも言いたいのか」

「そうは言っていません」

「同じ意味だろう」

「殿下がどう思っていたかは、私には分かりません。ただ、私はそう感じていました」

これは責めるための会話ではない。

そのつもりなのに、口に出すほど相手の顔が傷ついていく。

人間は面倒だと、リゼットは思った。

本音を言えば誰かが傷つく。

だから黙る。

黙れば、今度は自分が傷つく。

どちらを選んでも、何も傷つかずには済まない。

「少なくとも」

アルベルトは低く言った。

「今ここで婚約まで投げ出す必要はないはずだ。一度帰って、数日考えればいい」

リゼットは首を横に振った。

「いいえ」

「なぜだ」

「数日考えたら、きっと私は謝るからです」

「……何?」

「お父様とお母様が困っている。ミレイユが苦しんでいる。殿下も怒っている。そんな状態で家に戻れば、私はきっと耐えられなくなります。そして、さっき言ったことを全部なかったことにして、また同じことをします」

自分の弱さを認めるのは、思っていたより苦しかった。

だが、これだけは分かっていた。

意志が強いから拒めたのではない。

今日はたまたま、限界を越えただけだ。

家へ戻れば、また元に戻る可能性が高い。

「だから、戻りません」

父が目を見開く。

「何を言っている?」

「伯爵家を出ます」

今度は母が立ち上がった。

「リゼット、待ちなさい。そんな、家を出るだなんて、どこへ行くつもりなの?」

「まだ決めていません」

「そんな状態でどうやって暮らすの。あなたは一人で宿を取ったことすらないでしょう」

「はい」

「お金の管理だって、家の者に任せていたでしょう。馬車の手配も、食事の用意も、自分ではしたことがないのよ?」

「それも、分かっています」

母の言葉は全部正しい。

それが余計に怖かった。

自分は何も知らない。

十九歳にもなって。

王宮の作法も、貴族の家系も、祈紡ぎの術式も知っている。

けれど、一人で町へ出て宿を探す方法を知らない。

今夜どこで寝ればいいのかすら分からない。

それでも、ここへ残るよりはいいと思った。

「だから覚えます」

リゼットが言うと、母は言葉を失った。

「できるかどうかは分かりません。でも、できないから家にいるしかないというのは、もう嫌です」

父が額を押さえた。

「本気なのか」

「はい」

「それならせめて、ミレイユの状態が落ち着くまで待て」

その名前が出た瞬間、リゼットの心はまた揺れた。

ミレイユ。

自分の妹。

まだ治療室で苦しんでいる。

逃げるように去って、本当にいいのだろうか。

その時、扉が開いた。

全員が振り返る。

そこには侍女に支えられたミレイユが立っていた。

「ミレイユ!」

母が駆け寄る。

「どうして起きてきたの。まだ横になっていなければいけないでしょう」

「聞こえたの」

弱々しい声だった。

「お姉様が、家を出るって」

リゼットは動けなかった。

ミレイユは母の手を振りほどくようにして、一歩ずつこちらへ来た。

顔色は悪い。

額には汗が浮かび、首筋の呪紋も消えていない。

それでも歩いてきた。

「お姉様」

「ミレイユ、戻った方がいいわ」

「嫌」

その一言が、妙に胸へ刺さった。

妹も「嫌」と言うのだ。

自分は十八年間かかってようやく言えたのに、ミレイユは昔から素直に言えた。

羨ましいと思ったことは何度もある。

「私、死にたくない」

ミレイユの目から涙が溢れた。

「怖いの。ずっと身体が熱くて、息をするたび痛くて、このまま寝たら目を覚まさないんじゃないかって思って……お姉様なら助けてくれるって、ずっと思ってた」

リゼットの胸が締めつけられる。

「うん」

「だって、いつも助けてくれたでしょう。小さい頃、私が熱を出した時も、階段から落ちた時も、夜会で失敗して泣いた時も。だから今回も……」

ミレイユはそこで言葉を詰まらせた。

「今回も、お姉様なら助けてくれるって」

責めているのではない。

本気でそう信じていたのだ。

だからこそ、残酷だった。

「ミレイユ」

リゼットは少し迷ってから、妹の前へ歩いた。

「私も、あなたに死んでほしくない」

「だったら――」

「でも、怖いの」

妹の声が止まる。

「私も怖い。あなたと同じように」

「……お姉様が?」

その反応に、リゼットは少し傷ついた。

妹の中では、自分は怖がらない人間だったらしい。

「怖いわ。祈紡ぎを使うたび、何を失うか分からないもの」

「でも、今まで……」

「言わなかったからね」

ミレイユが黙る。

「あなたに心配してほしくなかったわけではないの。ただ、私が嫌だと言えば、誰かが苦しむでしょう。だから我慢した方が楽だったの。たぶん、ずっと」

「私のせい?」

「全部あなたのせいではないわ」

そこは、はっきり伝えたかった。

リゼットは妹を悪者にしたいわけではない。

「でも、あなたも私が助けてくれるのを当然だと思っていたでしょう?」

ミレイユの唇が震えた。

否定しなかった。

その沈黙が答えだった。

「……ごめんなさい」

小さな声。

すぐに続けて、もっと小さな声で、

「でも、死にたくない」

と言った。

矛盾している。

謝りながら、助けを求めている。

リゼットは、そんな妹を嫌いになれなかった。

人間はもっと簡単に善人と悪人へ分かれればいいのに、と少し思う。

そうすれば、こんなに苦しくない。

リゼットは手を伸ばした。

一瞬だけ迷い、それから妹の手を握った。

「私も、あなたを助けたい」

ミレイユが顔を上げる。

「だったら――」

「でも、今のやり方では嫌なの」

「他の方法なんてあるの?」

「分からない」

正直に答える。

「でも、探したいの。私が全部引き受ける以外の方法を」

父が口を挟んだ。

「そんな悠長なことを言っている場合ではない」

「分かっています」

「分かっていない。呪いは進行しているんだ」

「では、お父様は他の方法を探しましたか?」

父が黙った。

「グレイグ様以外の魔術師へ相談しましたか。国外の術式を調べましたか。古い記録を読みましたか。祈紡ぎ以外の方法が本当にないと、最後まで探しましたか?」

「それは……」

「私がいるから、探さなかったのではありませんか?」

誰も答えなかった。

それだけで十分だった。

リゼットは妹の手をそっと離した。

「ミレイユ。ごめんなさい」

妹の顔が歪む。

「お姉様、行くの?」

「うん」

「今?」

「今だから行くの」

もう一晩残れば、きっと決心が鈍る。

母に泣かれ、父に説得され、ミレイユの苦しむ顔を見れば、自分はまた差し出してしまう。

それが分かっていた。

リゼットは自分の弱さを知っている。

だから、逃げる。

それは卑怯なのかもしれない。

でも、今はそれしかできなかった。

「いつか、私が自分で戻ると決めたら戻ります」

父の顔が険しくなる。

「勝手な真似は許さん」

リゼットは父を見た。

今までなら、その一言だけで何も言えなくなっていた。

今日は違った。

怖いまま、口を開く。

「では、お父様」

少しだけ声が震えた。

「許していただけなくても、行きます」

父が完全に言葉を失った。

その顔を見て、リゼットは初めて気づいた。

父は、自分が逆らう可能性そのものを考えたことがなかったのだ。

それほどまでに、自分は従順な娘だった。

その日の夜。

リゼットは伯爵邸の自室へ戻り、小さな旅行鞄へ荷物を詰めた。

服は三着だけ。

下着と靴。

祖母からもらった髪飾り。

母が昔くれた刺繍入りのハンカチ。

少額の現金。

それから、机の奥にしまっていた古い手紙を数通。

侍女たちは戸惑っていたが、誰も強く止めなかった。

命令されていないからだろう。

最後に部屋を見回した。

十九年間使ってきた部屋だった。

窓辺の椅子。

本棚。

小さな化粧台。

全部、自分のものだったはずなのに、どこか借り物のように感じた。

廊下へ出ると、母が立っていた。

「本当に行くのね」

「はい」

「今からでも遅くないわ」

「分かっています」

「私はあなたを嫌っているわけではないのよ」

「知っています」

母の目から涙が落ちた。

「あなたも大切な娘なの」

リゼットは少し迷った。

それから、母の手を握る。

「私も、お母様が嫌いなわけではありません」

「なら、どうして」

「好きでも、離れた方がいいことはあると思います」

母は何も言わなかった。

その言葉が自分でも悲しかった。

大切に思っている。

だからこそ、これ以上嫌いになりたくない。

だから離れる。

そんな別れ方もあるのだと、リゼットは初めて知った。

正門を出た時、夜風が頬を撫でた。

静かな王都。

見慣れた石畳。

遠くに王宮の尖塔が見える。

行き先は決めていない。

宿の取り方も知らない。

明日どこで朝食を食べればいいのかすら分からない。

急に、足が震えた。

帰りたい。

そんな気持ちが一瞬だけ湧いた。

振り返れば、今までの生活がある。

謝れば、きっと全部元に戻る。

父も母も安心する。

アルベルトも、時間を置けば許してくれるかもしれない。

ミレイユも助けられる。

たぶん。

でも、その時の自分が何を失っているのかは分からない。

リゼットは鞄の持ち手を強く握った。

「怖いな……」

誰に聞かせるでもなく呟く。

夜道で一人になるのは、生まれて初めてだった。

それでも、戻らなかった。

十八年間で初めて口にした「嫌です」という言葉を、なかったことにしたくなかったからだ。

リゼットは前を向いた。

王都の北門へ向かって、一歩ずつ歩き始める。

どこへ行くのかは、まだ分からない。

けれど少なくとも今夜だけは、自分の足で選んだ道だった。

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