LOGIN「リゼット、少し頭を冷やしなさい」
王宮の治療室を出て最初に父から言われたのは、そんな言葉だった。
まるで、さっき自分が婚約指輪を外したことも、妹の身代わりになるのを拒んだことも、一時の激情に任せた行動でしかないと言われているようだった。
実際、父はそう思っているのだろう。
治療室に残ったミレイユの処置は宮廷魔術師たちが続けることになり、リゼットたちは隣の応接室へ移された。重い扉が閉じると、あれほど張り詰めていた空気が少しだけ緩むはずだったが、リゼットにはむしろ逃げ場を塞がれたように感じられた。
父は立ったまま窓辺に寄り、母は長椅子へ座って何度も目元を押さえている。
アルベルトは向かい側の椅子に座っていたが、黙ったままだった。
机の上には、先ほどリゼットが返した婚約指輪が置かれている。
誰も持ち去らなかった。
小さな金色の輪が、ひどく場違いに見えた。
「頭なら冷えています、お父様」
リゼットは答えた。
父が深く息を吐く。
「それならなおさら問題だ。自分が何をしたか理解しているということだからな」
「理解しています」
「本当にか?」
父はようやくこちらを見た。
その表情には怒りもあったが、それ以上に困惑があった。
娘が突然、知らない人間になったとでも言いたげだった。
「王太子殿下との婚約だぞ。お前が生まれた頃から我が家がどれほど王家との縁を望んできたか、知らないはずはない。婚約が正式に決まった時、お前自身も喜んでいただろう」
「はい」
「なら、どうして一度の行き違いで全てを投げ捨てる」
その言い方に、リゼットの胸が少しだけ痛んだ。
一度の行き違い。
父にとっては、今日起きたことだけを指しているのだろう。
だがリゼットにとっては違う。
今日いきなり嫌になったのではない。
ずっと嫌だった。
ずっと怖かった。
そのたびに飲み込んできただけだ。
「一度ではありません」
リゼットは静かに言った。
「何がだ」
「今日だけではありません。十二歳の時も、十四歳の時も、十六歳の時も、私は怖かったです。祈紡ぎを使うたび、次に目を覚ました時、自分が何を失っているか分からないのが怖かった。けれど、その度に『大丈夫だ』と言われました。私も、そういうものなのだと思おうとしてきました」
父の眉間に皺が寄った。
「だからと言って、家族を見捨ててよい理由にはならないだろう」
見捨てる。
その言葉は鋭かった。
リゼットは一瞬、言葉を失った。
母が慌てて父を見る。
「あなた、そんな言い方は……」
「だが事実だ。ミレイユの命がかかっている。リゼットにしか助けられない可能性が高い。それを分かった上で拒むなら、結果として見捨てることになる」
リゼットの指先が冷たくなる。
たぶん父は、彼女を傷つけようとして言っているわけではない。
むしろ、筋の通った話をしているつもりなのだろう。
だから厄介だった。
悪意だけなら、もっと簡単に嫌いになれる。
「お父様は、私に何を求めているのですか?」
「ミレイユを救うことだ」
「そのために、私が誰を忘れてもですか?」
父の口が止まった。
リゼットは続けた。
「もし、お母様のことを忘れても。お父様のことを忘れても。殿下を忘れても。それでも構わないと、本当に思っていらっしゃいますか?」
「そういう話ではない」
「同じ話です」
「違う」
珍しく父の声が強くなった。
「命と記憶は違う。ミレイユが死ねば、もう何も取り戻せない。しかし、お前が記憶を失ったとしても、生きてさえいれば新しい関係を築ける。だから私は、より取り返しのつかない方を優先すべきだと言っている」
理屈は分かる。
嫌になるほど分かってしまう。
だから、今までずっと従ってきた。
「では、お父様」
リゼットは父から目を逸らさなかった。
「私が全部忘れても、同じことを言えますか?」
父の顔がわずかに固まる。
「全部?」
「自分の名前も、この家のことも、家族のことも。何もかもです」
「そこまでになるとは限らないだろう」
「そうですね。ですが、ならないとも言えません」
グレイグの説明では、それほど強い呪いだった。
誰も確かなことなど言えない。
「私は、ミレイユに死んでほしいわけではありません。でも、私だって、自分が誰なのか分からなくなるのは怖いのです」
母が小さく泣き声を漏らした。
「リゼット……あなた、そんなに辛かったの?」
その問いに、リゼットは笑いそうになった。
笑える話ではないのに。
どうして今まで分からなかったのですか、と言いたかった。
けれど、口に出せなかった。
母が知らなかったのではない。
リゼットが言わなかったのだ。
「辛いと言えば、お母様たちを困らせると思っていました」
「そんな……」
「それに、私が我慢すれば誰かが助かるのでしょう? だから言わない方がいいのだと思っていました」
「それなら、今日だって……」
母が途中で言葉を止めた。
自分でも、何を言おうとしたのか気づいたのだろう。
今日だって我慢すればいい。
そう言いかけた。
リゼットにも分かった。
母にも分かった。
だからこそ、部屋の空気が重くなった。
アルベルトが長い沈黙の後、口を開いた。
「リゼット」
彼の声は、先ほどより静かだった。
「さっきのことは、私も言い方が悪かったと思っている」
リゼットは彼を見た。
「記憶ならまた作ればいい、という言葉ですね」
「ああ」
「言い方だけの問題なのですか?」
アルベルトは少し黙った。
「……そう言われると、違うな」
その答えに、リゼットはわずかに驚いた。
もっとすぐに否定すると思っていた。
アルベルトは眉間へ手をやった。
「私は、君なら受け入れると思い込んでいた。これまでそうだったからだ。君は誰かが困っていれば助けていたし、それを嫌がっているようにも見えなかった」
「嫌がらないようにしていました」
「なぜ?」
その問いに、今度こそリゼットは少し笑った。
「殿下まで、そうお尋ねになるのですね」
「どういう意味だ」
「嫌だと言える雰囲気ではありませんでした」
アルベルトの顔が硬くなる。
「私は君に強制したつもりはない」
「はい。殿下は命令されたことはありません」
「なら――」
「でも、断ったこともありませんでしたから」
リゼットは机の上の婚約指輪を見た。
「あの頃の私は、殿下に嫌われるのが怖かったのです。役に立つ婚約者でいなければならないと思っていました。だから、頼まれたら断らなかった。殿下も、それを当然だと思うようになった。それだけのことです」
アルベルトの顔に、初めて分かりやすい動揺が浮かんだ。
「私が君を、役に立つかどうかで見ていたとでも言いたいのか」
「そうは言っていません」
「同じ意味だろう」
「殿下がどう思っていたかは、私には分かりません。ただ、私はそう感じていました」
これは責めるための会話ではない。
そのつもりなのに、口に出すほど相手の顔が傷ついていく。
人間は面倒だと、リゼットは思った。
本音を言えば誰かが傷つく。
だから黙る。
黙れば、今度は自分が傷つく。
どちらを選んでも、何も傷つかずには済まない。
「少なくとも」
アルベルトは低く言った。
「今ここで婚約まで投げ出す必要はないはずだ。一度帰って、数日考えればいい」
リゼットは首を横に振った。
「いいえ」
「なぜだ」
「数日考えたら、きっと私は謝るからです」
「……何?」
「お父様とお母様が困っている。ミレイユが苦しんでいる。殿下も怒っている。そんな状態で家に戻れば、私はきっと耐えられなくなります。そして、さっき言ったことを全部なかったことにして、また同じことをします」
自分の弱さを認めるのは、思っていたより苦しかった。
だが、これだけは分かっていた。
意志が強いから拒めたのではない。
今日はたまたま、限界を越えただけだ。
家へ戻れば、また元に戻る可能性が高い。
「だから、戻りません」
父が目を見開く。
「何を言っている?」
「伯爵家を出ます」
今度は母が立ち上がった。
「リゼット、待ちなさい。そんな、家を出るだなんて、どこへ行くつもりなの?」
「まだ決めていません」
「そんな状態でどうやって暮らすの。あなたは一人で宿を取ったことすらないでしょう」
「はい」
「お金の管理だって、家の者に任せていたでしょう。馬車の手配も、食事の用意も、自分ではしたことがないのよ?」
「それも、分かっています」
母の言葉は全部正しい。
それが余計に怖かった。
自分は何も知らない。
十九歳にもなって。
王宮の作法も、貴族の家系も、祈紡ぎの術式も知っている。
けれど、一人で町へ出て宿を探す方法を知らない。
今夜どこで寝ればいいのかすら分からない。
それでも、ここへ残るよりはいいと思った。
「だから覚えます」
リゼットが言うと、母は言葉を失った。
「できるかどうかは分かりません。でも、できないから家にいるしかないというのは、もう嫌です」
父が額を押さえた。
「本気なのか」
「はい」
「それならせめて、ミレイユの状態が落ち着くまで待て」
その名前が出た瞬間、リゼットの心はまた揺れた。
ミレイユ。
自分の妹。
まだ治療室で苦しんでいる。
逃げるように去って、本当にいいのだろうか。
その時、扉が開いた。
全員が振り返る。
そこには侍女に支えられたミレイユが立っていた。
「ミレイユ!」
母が駆け寄る。
「どうして起きてきたの。まだ横になっていなければいけないでしょう」
「聞こえたの」
弱々しい声だった。
「お姉様が、家を出るって」
リゼットは動けなかった。
ミレイユは母の手を振りほどくようにして、一歩ずつこちらへ来た。
顔色は悪い。
額には汗が浮かび、首筋の呪紋も消えていない。
それでも歩いてきた。
「お姉様」
「ミレイユ、戻った方がいいわ」
「嫌」
その一言が、妙に胸へ刺さった。
妹も「嫌」と言うのだ。
自分は十八年間かかってようやく言えたのに、ミレイユは昔から素直に言えた。
羨ましいと思ったことは何度もある。
「私、死にたくない」
ミレイユの目から涙が溢れた。
「怖いの。ずっと身体が熱くて、息をするたび痛くて、このまま寝たら目を覚まさないんじゃないかって思って……お姉様なら助けてくれるって、ずっと思ってた」
リゼットの胸が締めつけられる。
「うん」
「だって、いつも助けてくれたでしょう。小さい頃、私が熱を出した時も、階段から落ちた時も、夜会で失敗して泣いた時も。だから今回も……」
ミレイユはそこで言葉を詰まらせた。
「今回も、お姉様なら助けてくれるって」
責めているのではない。
本気でそう信じていたのだ。
だからこそ、残酷だった。
「ミレイユ」
リゼットは少し迷ってから、妹の前へ歩いた。
「私も、あなたに死んでほしくない」
「だったら――」
「でも、怖いの」
妹の声が止まる。
「私も怖い。あなたと同じように」
「……お姉様が?」
その反応に、リゼットは少し傷ついた。
妹の中では、自分は怖がらない人間だったらしい。
「怖いわ。祈紡ぎを使うたび、何を失うか分からないもの」
「でも、今まで……」
「言わなかったからね」
ミレイユが黙る。
「あなたに心配してほしくなかったわけではないの。ただ、私が嫌だと言えば、誰かが苦しむでしょう。だから我慢した方が楽だったの。たぶん、ずっと」
「私のせい?」
「全部あなたのせいではないわ」
そこは、はっきり伝えたかった。
リゼットは妹を悪者にしたいわけではない。
「でも、あなたも私が助けてくれるのを当然だと思っていたでしょう?」
ミレイユの唇が震えた。
否定しなかった。
その沈黙が答えだった。
「……ごめんなさい」
小さな声。
すぐに続けて、もっと小さな声で、
「でも、死にたくない」
と言った。
矛盾している。
謝りながら、助けを求めている。
リゼットは、そんな妹を嫌いになれなかった。
人間はもっと簡単に善人と悪人へ分かれればいいのに、と少し思う。
そうすれば、こんなに苦しくない。
リゼットは手を伸ばした。
一瞬だけ迷い、それから妹の手を握った。
「私も、あなたを助けたい」
ミレイユが顔を上げる。
「だったら――」
「でも、今のやり方では嫌なの」
「他の方法なんてあるの?」
「分からない」
正直に答える。
「でも、探したいの。私が全部引き受ける以外の方法を」
父が口を挟んだ。
「そんな悠長なことを言っている場合ではない」
「分かっています」
「分かっていない。呪いは進行しているんだ」
「では、お父様は他の方法を探しましたか?」
父が黙った。
「グレイグ様以外の魔術師へ相談しましたか。国外の術式を調べましたか。古い記録を読みましたか。祈紡ぎ以外の方法が本当にないと、最後まで探しましたか?」
「それは……」
「私がいるから、探さなかったのではありませんか?」
誰も答えなかった。
それだけで十分だった。
リゼットは妹の手をそっと離した。
「ミレイユ。ごめんなさい」
妹の顔が歪む。
「お姉様、行くの?」
「うん」
「今?」
「今だから行くの」
もう一晩残れば、きっと決心が鈍る。
母に泣かれ、父に説得され、ミレイユの苦しむ顔を見れば、自分はまた差し出してしまう。
それが分かっていた。
リゼットは自分の弱さを知っている。
だから、逃げる。
それは卑怯なのかもしれない。
でも、今はそれしかできなかった。
「いつか、私が自分で戻ると決めたら戻ります」
父の顔が険しくなる。
「勝手な真似は許さん」
リゼットは父を見た。
今までなら、その一言だけで何も言えなくなっていた。
今日は違った。
怖いまま、口を開く。
「では、お父様」
少しだけ声が震えた。
「許していただけなくても、行きます」
父が完全に言葉を失った。
その顔を見て、リゼットは初めて気づいた。
父は、自分が逆らう可能性そのものを考えたことがなかったのだ。
それほどまでに、自分は従順な娘だった。
その日の夜。
リゼットは伯爵邸の自室へ戻り、小さな旅行鞄へ荷物を詰めた。
服は三着だけ。
下着と靴。
祖母からもらった髪飾り。
母が昔くれた刺繍入りのハンカチ。
少額の現金。
それから、机の奥にしまっていた古い手紙を数通。
侍女たちは戸惑っていたが、誰も強く止めなかった。
命令されていないからだろう。
最後に部屋を見回した。
十九年間使ってきた部屋だった。
窓辺の椅子。
本棚。
小さな化粧台。
全部、自分のものだったはずなのに、どこか借り物のように感じた。
廊下へ出ると、母が立っていた。
「本当に行くのね」
「はい」
「今からでも遅くないわ」
「分かっています」
「私はあなたを嫌っているわけではないのよ」
「知っています」
母の目から涙が落ちた。
「あなたも大切な娘なの」
リゼットは少し迷った。
それから、母の手を握る。
「私も、お母様が嫌いなわけではありません」
「なら、どうして」
「好きでも、離れた方がいいことはあると思います」
母は何も言わなかった。
その言葉が自分でも悲しかった。
大切に思っている。
だからこそ、これ以上嫌いになりたくない。
だから離れる。
そんな別れ方もあるのだと、リゼットは初めて知った。
正門を出た時、夜風が頬を撫でた。
静かな王都。
見慣れた石畳。
遠くに王宮の尖塔が見える。
行き先は決めていない。
宿の取り方も知らない。
明日どこで朝食を食べればいいのかすら分からない。
急に、足が震えた。
帰りたい。
そんな気持ちが一瞬だけ湧いた。
振り返れば、今までの生活がある。
謝れば、きっと全部元に戻る。
父も母も安心する。
アルベルトも、時間を置けば許してくれるかもしれない。
ミレイユも助けられる。
たぶん。
でも、その時の自分が何を失っているのかは分からない。
リゼットは鞄の持ち手を強く握った。
「怖いな……」
誰に聞かせるでもなく呟く。
夜道で一人になるのは、生まれて初めてだった。
それでも、戻らなかった。
十八年間で初めて口にした「嫌です」という言葉を、なかったことにしたくなかったからだ。
リゼットは前を向いた。
王都の北門へ向かって、一歩ずつ歩き始める。
どこへ行くのかは、まだ分からない。
けれど少なくとも今夜だけは、自分の足で選んだ道だった。
第27話 私が決めます翌朝。リゼットが食堂へ入ると、ヴァルドはすでに席についていた。いつもと同じように見える。紅茶。黒パン。焼いた卵。領内から届いた朝の報告書。けれど。明らかに機嫌が悪い。眉間の皺だけなら普段からある。問題は。一度もこちらを見ないことだった。「おはようございます」「おはよう」返事はする。短い。「よく眠れましたか?」「ああ」「私は少し寝不足です」「そうか」会話が続かない。リゼットは向かいへ座った。マーサが朝食を並べながら、二人を交互に見る。そして。何も言わず去っていく。あのマーサが何も言わない。それだけで。相当まずい空気なのだと分かった。リゼットはパンへ手を伸ばす。食欲はあまりない。昨夜。二人とも分かっていた。今日、話す。新しい治療法について。ヴァルドは反対。自分は。まだ決めていない。正確には。少しずつ。気持ちは決まり始めている。それを。彼が受け入れるとは思えなかった。「公爵様」「何だ」「朝食の後、時間をいただけますか」ようやく。
第26話 ミレイユを救う方法老術師が広げた図面には、複雑な円環がいくつも描かれていた。中央に一つ。その周囲に六つ。さらに外側を囲むように、細い線が北方の地形へ沿って伸びている。リゼットは椅子へ座り直し、何度も図を目で追った。「一つずつ説明していただけますか」声は落ち着いていた。少なくとも、自分ではそう思った。隣にいるヴァルドの表情が険しいことは分かっている。先ほどから一言も発していない。反対なのだろう。まだ何をするかさえ決まっていないのに、その顔だけで十分伝わってきた。老術師は頷き、中央の円を指した。「まず、この中心に呪いを受けている者を置きます。今回であればミレイユ様です」「はい」「通常の祈紡ぎによる浄化では、ここから発生する呪滓を直接リゼット様へ移し、リゼット様ご自身の力で分解していただくことになります」リゼットは頷く。今まで何度もしてきたことだ。違うのは。ミレイユの呪いが、これまで経験したどんな呪滓より深いこと。そして。一度取り除けば終わるとは限らないことだった。「ですが、この術式では」老術師の指が周囲の六つの円へ移る。「一度に全量を移しません」「分けるのですね」「はい。まず呪いを六つへ分散させます」リゼットは図面を見る。「六人の人間へ?」老術師は首を横に振った。「そこが重要です。人ではありません」「では?」「土地です」思わず顔を上げた。
第25話 初めて抱きしめられる祖母の手紙を見つけた翌日、リゼットは朝から妙に落ち着かなかった。悲しいのかと聞かれれば、悲しい。嬉しいのかと聞かれれば、それも間違いではない。祖母が自分を大切に思っていたことを知れた。忘れてしまった顔や声について、ミレイユから新しく聞くこともできた。それなのに、胸の奥には昨日から重いものが沈んでいる。理由は分かっていた。祖母の手紙の中にあった一文だ。『娘にも全てを話せませんでした』娘。つまり、母マルグリット。母は何も知らなかったのか。それとも、何かだけは知っていたのか。どこまで。祖母は何を言えず。母は何を聞けず。そして自分へは、何も伝わらなかったのか。考え始めると、止まらなくなった。「リゼット様」声をかけられ、ようやく顔を上げる。資料室の向かいに座っていたノエルが、困ったような顔をしている。「同じ頁を、もう十分くらい見ています」「そんなに?」「少なくとも俺が三回インクを足すくらいは」「その基準は分かりません」「俺も今作りました」少し笑う。けれど、自分でも集中できていないのは分かっていた。今日調べているのは、祖母エレナが残した他の文書と、アーヴェル家へ送られた可能性のある書簡の記録だった。肝心の手紙そのものは見つかっていない。ただ。三十年前。エレナから娘マルグリットへ、私信が二度送られている記録が残っていた。内容は不明。そ
第24話 祖母も知っていた翌朝、古文書庫の中央には、一枚の巨大な紙が広げられていた。普通の系図ではない。いくつもの家名が線でつながり、婚姻によって姓を変えた女性たちの名前が、三百年以上にわたって書き加えられている。王都の侯爵家。地方の伯爵家。すでに断絶した子爵家。神殿へ入った女性。平民へ降嫁した者までいる。一見すれば、何の共通点もない。しかし。赤い印をつけられた名前だけを追えば。一本の線になる。「……これが全部」リゼットは系図から目を離せなかった。「祈紡ぎなのですか」白髪の老術師が頷く。「記録で確認できた者については」昨日見つけた三十七人。そのうち、家系を遡れた三十一人が。婚姻を重ねながら。ほぼ同じ血統へつながっていた。「そんなことが」ノエルも驚きを隠せない。「名字が全部違うから、今まで誰も気づかなかったんですか?」「それも一因でしょう」老術師が答える。「祈紡ぎの力そのものが、母から娘へ必ず受け継がれるわけではありませんからな」「では、飛ぶのですか」リゼットが尋ねる。「一代、二代と現れないこともあったようです。それでも、かなり高い割合で同じ母系に戻っております」ヴァルドは腕を組み、系図の端から端まで見ていた。「偶然で説明できるか」老術師は首を横に振る。「難しいでしょう」「婚姻を操作した可能性は」
第23話 消された祈紡ぎたち翌朝、リゼットが古文書庫へ降りると、昨日までとは明らかに様子が違っていた。中央の大机だけでは足りず、壁際に二つ追加の机が並べられ、その上には年代別に分けられた記録簿が山のように積まれている。ノエルとガレスだけではない。砦の文官がさらに四人。北方公爵家付きの術師が三人。そして、昨日から調査を指揮している白髪の老術師まで、すでに仕事を始めていた。「……本当に全部出したのですね」リゼットが呟くと、後ろからヴァルドの声がした。「全部出せと言ったからな」「少しは加減するのかと思っていました」「何のために」振り返る。ヴァルドも朝から普段より険しい顔をしていた。「祈紡ぎがどう扱われてきたか調べるんだろう」「はい」「なら都合のいい年代だけ拾っても意味がない」その通りだった。けれど。机の上の量を見ると、気が遠くなる。ノエルが遠くから手を挙げた。「リゼット様、今なら逃げても誰も責めませんよ」「逃げません」「ですよね」「ノエルは逃げたいのか」ヴァルドが言う。「いえ、全く」「今、かなり逃げたい顔をしていたぞ」「閣下ほど人の顔を読む能力はありませんので、自分の顔までは分かりません」「口は回るな」「仕事もしております」机の上にはすでに十数枚の要約が並んでいる。どうやら本当に働いているらしい。リゼットも外套を脱ぎ、自分の席へついた。
第22話 妹の呪いに王家の紋章がある北方公爵家の古文書庫は、砦の地下にあった。正確には、砦が建てられるよりさらに前から存在していた石造りの保管庫を、後の時代に砦の一部へ組み込んだものらしい。朝。ヴァルドに案内されて地下へ降りたリゼットは、重い鉄扉の前で思わず足を止めた。「ここですか?」「ああ」「随分、大げさですね」鉄扉には三つの鍵穴がある。しかも、その周囲には古い魔術式まで刻まれていた。ヴァルドは腰の鍵束から一つを取り出し、同行していた法務官がもう一つ、白髪の老術師が最後の一つを差し込む。「公爵様一人では開けられないのですか?」「開けられないようにしてある」「なぜです?」「当主が勝手に記録を消したり、書き換えたりしないためだ」その答えに、リゼットは少し驚いた。「公爵家自身を信用していない仕組みなのですね」「人間だからな」いつものように簡単に言う。三人が同時に鍵を回すと、低い音が響いた。老術師が魔力を流し、扉に刻まれた線が薄く光る。やがて。重い鉄扉がゆっくり開いた。中から冷たい空気が流れてくる。地下特有の湿った匂い。古い紙。革。木。そして。ほんの少しだけ。呪滓に似た匂い。リゼットは眉を寄せた。「何かあります」ヴァルドがすぐに反応する。「呪いか?」「いえ」リゼットは入口で立ち止まり、感覚を確かめる。